植木等さんの死を悼む
3月27日、俳優でコメディアンの植木等さんが80歳で亡くなった。
昭和32年にハナ肇さんが結成したクレージーキャッツに参加し、歌とギャグを担当し、特に昭和36年「スーダラ節」お大ヒットさせた。
高度成長期の昭和37年の夏、映画「ニッポン無責任時代」が東宝で作られ、その主人公にを演じ、それに合わせて「無責任一代男」「ハイそれまでヨ」の曲がテレビから流れ、映画も大ヒットした。同年末には「ニッポン無責任野郎」は封切られ、これまたヒットしたのである。
いい加減な上底抜けに明るく、要領の良さだけで出世するサラリーマンを演じ、彼自身が「無責任男」の代名詞となった。しかし実は、誠実で思慮深い人であったという。
彼は、三重県の浄土真宗寺院に生まれた。父である住職は部落解放運動に積極的に関わり、封建制から抜けきれない当時、治安維持法違反で入獄したり、各地の社会運動に参加するなど、信条を持った行動の人であった。
きまじめな植木さんは、青島幸夫氏の「スーダラ節」の歌詞「わかっちゃいるけどやめられない」について父に相談したところ、親鸞の生き様に通じるものがあると諭され、歌うことを決意したという。
彼が42年前京都にいたとき、京都親鸞会が講演を依頼した。多くの市民が仏教に関心を持ってもらうために、芸能人を講師に迎えることにしたのである。それには人気があるだけではなく、しっかりした考え方をもった人ということで、植木等さんに白羽の矢が立ったということだ。
それも歌ではなく講演会ということであったが彼は快諾をし、そのユーモアある話しぶりはとても印象に残っている。
当日同じく講演した映画監督の松林宗恵氏の話によると、植木さんはこの日のために何日もかけてテープに吹き込んで練習したという。それを聞いて、彼の努力する姿に胸を打たれたことであった。
10年前頃から肺気腫を患い、療養しながらの仕事だったようである。自分に何かあったら延命措置をせず、密葬にしてくれと周りの人に話しており、関係者もそれを遺言として受けとめていたというから、日頃の信頼関係がしっかりしていたのであろう。
コメント
この投稿には、まだコメントが付いていません
コメントの投稿
ごめんなさい、現在コメントを付けることは出来ません