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おおごえ大乗寺『こころの栄養』~MEMORANDUM~

 日常生活において、記憶に留めておきたい言葉に逢うことが偶々ある。しかし私が還暦を過ぎて齢を重ねるごとに忘却したり、メモしたものを紛失したりすることが増えてきた。
 他人とっては他愛もないことであっても、自分にとっては大切であり、感動を覚えたことをメモしておこうと思い立ち、ここに記すことにした。
 珠玉の稿を目指すものではない。自分の心をいくらかでも高めるための栄養になれば嬉しい。
 極端に言えば新聞の切り抜きでもよい。新聞やテレビの情報をもとに自分の提言をしてもよい。それらをメモして人間形成の一助としたいと勝手に考えた。
 研究課題の問題の吐露を書くかもしれない。前進せずに後退したとしても、前を向いて懸命に進み続けたいものだ。
 何もせずにじっとしてはいられない。淀んではいられない。この「いのち」はいつまであるか分からないのだ。私の脳の海馬に刻みつけたいことは何でも記したいと思う。
 随時に記すこととして、自分自身の教養を広げ、心の栄養としたいと切に願うものである。

大乗寺住職 干河岸昭信 (福島県田村市大越)

2007年2月5日(月曜日)

茶の伝来と普及

カテゴリー: - admin-enjuji @ 10時24分27秒

茶道裏千家の15代家元、千玄室氏は言う。

「鄧小平副首相から、中国に起源のある茶の株があれば両国を一体にできる。頑張って欲しい、と頼まれてからだ。」と。

氏は中国に百回以上訪問し、「一碗から平和を」を訴えて茶道を弘め、97年文化勲章を受章し、5年前に家元を長男に譲った。しかしながら83歳の今も精力的に茶道の普及に努められている。

ここで茶道の伝来と普及について考えてみよう。

茶の木の原産地は中国の西南部と考えられている。茶を飲む風習がこの地から広がり、紀元前には商品として流通していた。

日本へは、奈良時代の遣唐使や中国に渡った留学僧達によって伝来したと伝えられる。

当時は茶の葉をつき固めて団子のようにした茶団であった。聖武天皇の時代、行茶の儀が行われていた記録がある。

平安時代になって、最澄が茶の種を持ち帰り滋賀県坂本に植え、茶は貴族や僧の間で飲まれていたが894年遣唐使が廃止され茶の輸入もなくなると、十分な生産ができず茶を飲む風習も一時途絶えた。

しかし平安末期、中国の宋と国交が再開されると、臨済禅を学んだ栄西らによって再び伝えられることになった。
この時代の茶は現在の抹茶とほぼ同じもので、精巧な道具を使用して茶を点てる作法も普及した。栄西は京都栂尾高山寺の明恵上人に茶の実を贈り、その地が茶の生育に適していたため上質な茶が採れるようになった。その後宇治や静岡など全国へと広がったのである。

栄西は、茶は万病に効くものであると「喫茶養生記」を著し、当時の将軍実朝も健康回復の葉として常用する。

室町時代になると茶は商人層にも広まっていくが、一方でその作法は豪奢となっていく。一部の上流階層の間では、皮肉にも現在の茶会と似た形式をもつ茶会風景が見られたようである。

しかし幕府の経済状態の悪化とともに、武家や貴族の生活も困窮に向かうと、絢爛たる茶会も影をひそめていく。

政治より風流を好んだ8代将軍足利義政は、身の回りの相談役の能阿弥の紹介で茶の湯を嗜む村田珠光を招いた。

珠光は奈良称名寺の禅僧であり、大徳寺の一休宗純に禅を学ぶ一方将軍に茶を教えた。

彼は義政に「茶の作法は簡素なもので、禅の精神に沿ったものである」と答えたことから、広い部屋での華やかな茶会ではなく、慈照寺銀閣や東求堂に四畳半の部屋を改め、簡素で落ち着いた草庵の茶を始めた。象牙や唐銅で作られていた茶杓、花入も竹や木に改めた。

義政が愛好すると一般にも流行し、寺社など人の集まる場所で飲ませる一服一銭の茶売りが現れるようになる。やがて義政の死や相次ぐ戦乱で、平和を愛し風流を楽しむ人たちは京都を離れ自治都市の安住の地堺へと移り住む。

この後武野紹鴎、千利休と伝えられ、茶道が確立していくのである。


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