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おおごえ大乗寺『こころの栄養』~MEMORANDUM~

 日常生活において、記憶に留めておきたい言葉に逢うことが偶々ある。しかし私が還暦を過ぎて齢を重ねるごとに忘却したり、メモしたものを紛失したりすることが増えてきた。
 他人とっては他愛もないことであっても、自分にとっては大切であり、感動を覚えたことをメモしておこうと思い立ち、ここに記すことにした。
 珠玉の稿を目指すものではない。自分の心をいくらかでも高めるための栄養になれば嬉しい。
 極端に言えば新聞の切り抜きでもよい。新聞やテレビの情報をもとに自分の提言をしてもよい。それらをメモして人間形成の一助としたいと勝手に考えた。
 研究課題の問題の吐露を書くかもしれない。前進せずに後退したとしても、前を向いて懸命に進み続けたいものだ。
 何もせずにじっとしてはいられない。淀んではいられない。この「いのち」はいつまであるか分からないのだ。私の脳の海馬に刻みつけたいことは何でも記したいと思う。
 随時に記すこととして、自分自身の教養を広げ、心の栄養としたいと切に願うものである。

大乗寺住職 干河岸昭信 (福島県田村市大越)

2008年1月28日(月曜日)

ある青年の死に学ぶ

カテゴリー: - admin-enjuji @ 09時13分16秒

 4年半ほど前に、Hさん夫妻の娘さんが、一人息子であるCくんを遺して自死してしまいました。ご夫妻と孫にあたるC君の嘆き悲しむ日々が始まりました。

 その頃Hさんの奥様が仏教婦人会の役員になり、月例会などには欠かさず出席されておりましたが、例会後の茶話には、娘さんのことを思い出しては悲しみと反省の涙を見せないときはありませんでした。

 そんなご夫妻でも、時間がお二人の気持ちを和らげ始めてくれたようです。Hさんのお母様は95歳を越してもなお健康で、横浜の菩提寺の晨朝勤行(おあさじ)は欠かさないという篤信者であったり、また私の勧めもあって本山の御正忌報恩講に参拝するなどするうちに、次第に平静を取り戻していくのがわかるようになりました。

 ただ心配だったのは孫のC君が母親の死後なお塞ぎ込んでいることでした。いつも自分を心配してくれた母親の死のショックは計り知れず、高校卒業後就職をするのですが、夜も寝られずまた体調を崩したこともあって家にいる時間が長くなりました。病院では統合失調症と診断され2週間ごとに通院しておりました。これは心の病であり、私と坊守は自分たちでも何かの役に立つのではないかと考え、Hさんと相談し何とかC君にお寺に足を運んでもらえるよう努力することにしました。

 ご主人もC君を独り立ちさせようと一生懸命でしたが、その思いが強過ぎたのかC君は祖父を避けるようになり、ますます家族のコミュニケーションがとりにくくなっていったようです。

 その話を聞いた坊守は、仏法は生活の中に生きなければ何にもならないと、Hさんをまじえた数名で正信偈の内容を少しずつ勉強し始めました。そうした中でHさんもその正信偈を家族で唱えたいとの希望をもち、娘さんの命日である16日に月忌参りをすることに決まりました。

 Hさんのご主人は、父親の仕事の都合で学校を転々としていたことや苦労して大学に入ったこと、就職してからもいろいろな問題を抱えたこと、また生家が真言宗であったけれどキリスト教に傾倒した時期もあったこと、やがて奥様とこの地にきて浄土真宗の門徒になることになった経緯など、お参りの折にはそんなことを忌憚なく話してくれました。

 しかしながらご夫妻の心配をよそにC君はお参りになかなか顔を出してはくれません。

 そんな頃、たまたま寺の境内整備の工事が進行中で、その中には素人でもできる作業もたくさんあり、私も坊守も空いた時間にはずっとその作業を手伝っておりましたので、C君も一緒に参加してもらえるようHさんにお願いてみました。実は仕事よりも、C君が外の空気を吸って体を動かす中で何かを見つけてくれればという思いが坊守にあったようです。快諾を得、作業はC君の体調・都合に合わせて、また励みになるだろうとのことから時給も決めました。

 本堂でお参りしてから作業開始です。ほとんど毎日来てくれます。体調によって外での作業ができないときは本堂で少しずつ仏教について学ぶようにしました。

 そんな日が続くうちに、次第にC君と私に会話が増え、やがて月忌参りにも顔をのぞかせてくれるようになりました。おつとめも大きな声を出してくれるようにもなり、Hさんご夫妻も大変喜んでおられました。私も坊守も、C君が素直に自分の気持ちを話す姿に心を打たれ、この気持ちを大切に自宅でもおじいちゃんおばあちゃんのお手伝いをするようにと話をしました。

 12月の月忌参りの日、いつも来てくれるC君ではなくご主人が迎えに来られました。彼は体調がすぐれないとのことでしたが、いつも通りににこにこと大きな声でお参りされました。

 しかしその数日後、ご夫妻が突然訪ねて来られ、C君が今朝亡くなりました、とのこと。私も坊守もただただ驚くばかりでした。糖尿病からくる合併症で亡くなられたそうです。26歳という若さでありました。「昨晩急に具合が悪くなり救急車で病院に運んだのですが、今朝容体が急変して亡くなりました。せっかくお世話になってましたのに申し訳ありません。お寺が好きだったので、本堂でお葬儀をしていただきたいのですが。」とご夫妻。私も「それが一番ふさわしいでしょう。」と3日後に葬儀を執り行いました。

 私はいつも葬儀の後に御文章「白骨の章」を拝読します。このご文は、亡くなった方が身近になればなるほど身に染みます。C君はよくお寺にお出でになりました。仏教も少しずつ学ばれ、次第に明るさを取り戻していくように思いました。数日前にお会いしたときはにこにこと笑顔であったのにと思うと、まさに「朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身」であり、老少不定の理、愛別離苦という厳しい現実を味わうこととなったのです。彼が若くしてこの世を去ったことは、お身内の方をはじめご縁の深かった方々一様にいたたまれないお気持ちであったろうと思います。

 私は7年前、一瞬にして両眼が見えなくなったことがあります。その入院治療中、視力は次第に回復していくものの脳梗塞を患い生命の危機に直面しました。このまま治らないのかと深く思い悩んだことでした。そんなとき偶々「人生は長さじゃない。深さです。幅です。」という金子大栄先生の言葉(法語カレンダー)に触れ、その言葉を支えとして一生懸命生きようと心を新たにしようと味わいました。C君も、体の調子が思うようにならず苦しい思いもしただろうけど、念仏の教えを味わう中で少しずつでも心の眼が開け、心の安定と喜びが感じられていったように思います。私はそのお念仏のすばらしさをC君から学ぶことができました。そういうことから言えばC君は私の善知識様でありました。この世ではもう会うことができず淋しいことではありますが、お浄土から私たちを還相回向として済度してくださることでしょう。有り難いことです。

 お母さんの祥月命日、C君が自分で働いたお金で購入したお花とお供物を供えて法要を終えたその日に書き残したノートを紹介します。

 お母さんのお陰で仏さまのことを知ることができました。4年かかりましたが、命の大切さも教えてもらいました。仏さまとは、亡くなった人のことをいうのではなく、私たちを守ってくださる阿弥陀如来様であることがわかりました。お母さんは、阿弥陀如来様の国にいます。けれども私たちを守っていてくださいますから、私はこの世の中は大変なことがありますが、ひとつひとつ自分のものにしてしっかりとお母さんの国に行けるように、がんばっておじいちゃんとおばあちゃんを守って暮らしたいと思います。お母さん見ていてください。

 C君の葬儀が終わり一段落した後、Hさんご夫妻がこんなことを言われました。

 「今まで孫の優しさは感じていましたが、自分のことより他人のことが気になって、友人のけんかの仲裁に入ったり困った人の相談相手になったり、彼が私たちの見えないところで人のために幾分なりとも役に立っていたかと思うと嬉しくなりました。今も同級生だった人やその家族の人たちが来てくださいます。私たちは彼にどこかしら『物足りなさ』を感じていましたが、実は私たちの思いをはるか超えていたんですね。」

 人間は誰でも長所短所を持っています。またそれは周りの条件によってどう変化するかも知れません。縁によって良くも悪くもなります。また、心の転換によって生き方を変えることもできるでしょう。

 仏さまの光に照らされると、自分が生かされていることが分かります。宗教は人間の生き方を教えてくれるものです。

 Hさんご夫妻は、C君の死によって心の転機を迎えることができました。お念仏の道に生きることを決心し、彼の五七日法要からは領解文を唱える声が聞こえるようになりました。


2007年10月1日(月曜日)

築地本願寺を訪ねて

カテゴリー: - admin-enjuji @ 11時21分01秒

 9月19日、東京の築地本願寺へ参拝した。ここは、正式には「浄土真宗本願寺派築地別院」という。1年あまり前の娘の結婚式でお世話になって以来である。ここに設置されているパイプオルガンの勇壮な演奏と、楽人による雅楽が本堂に響き渡ったことを思い出した。

 この本堂の外観は、日本古来の寺院様式とは異なり、古代インド様式になっており、一部が石造りで本堂内は桃山様式、外陣は椅子式である。これは旧建物が大正12年の関東大震災の際消失したため、昭和6年に起工し3年後の昭和6年に竣工した。当時の築地本願寺輪番は、福島県須賀川市勝誓寺の前々住職岡部宗城師のときであった。

 設計は、帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)教授であった伊東忠太博士によるものであり、博士はほかにも平安神宮や消失前の明治神宮、上杉神社などの設計で有名である。また、博士の出身地山形県にある本願寺派寺院明善寺と酷似していることも興味深い。

 現在の築地本願寺は、威容を感じさせるものであるが、その沿革をみると紆余曲折があったことをうかがえる。

 徳川家康時代、本願寺が東西に分派した際の施策により、江戸において西(本願寺派)の寺院を建てることは許されていなかった。西本願寺別院の建立が認められたのは、家康の死後元和3年(1617)第12代の准如上人の時代であった。

 当時、浅草近くの横山町にあったことから「江戸浅草御坊」と呼ばれていたが、明暦3年(1657)1月の明暦の大火(振袖火事)にて焼失してしまった。その後江戸幕府区画整理のために旧地への再建が許されず、代替地として百間四方を下付された場所が八丁堀の海上であった現在地である。

 そこで名主孫右衛門以下の大阪の佃島のご門徒が中心となり、早速海の埋め立て工事に取りかかり、彼らの尽力のお陰でその翌年には三分の一の埋め立てが進み仮本堂が再建された。こうして築かれた土地に延宝7年(1679)本堂が再建され「築地御坊」と呼ばれるようになったという。

 しかしながらそうして再建された本堂も、以後数度の火災に見舞われることとなる。

 御堂境内に既存したものを含め、その他の土地からの移入あるいは新規開創によって子院がたくさん建てられた。拙寺にある明治25年10月現在の寺院名簿によると、築地3丁目には59ヶ寺掲載されているが、震災を経た現在の名簿には2ヶ寺を数えるのみである。そのほかに築地4丁目の築地場外市場(震災前の門前町)付近に3ヶ寺存在する。

 多数の寺院は、比較的被害の少なかったところに分散して再建されたという。足立区伊興町や杉並区永福、大田区萩中、世田谷区松原や北島、調布市若葉町などである。

 これから分かるように、今から350年前、別院自体が大火によって浅草を諦め現在の地に移転を余儀なくされたとき、同じ真宗門徒の力によって再建されたことは、現在のように交通の便利がよくない時代、また重機のない労力中心の時代だけに、同信の味わった喜びは大きなものであったと思う。また関東大震災で途方に暮れたときに、教線拡大のための郊外移転の本山の奨励があったとはいえ、一からの出直しも大変なご苦労があったことであろうと思う。しかしながら今から思えばそれが都市開教の原動力となったと思うことでもある。まさに逆境を転じて順境と化したことは有り難いご縁といえよう。

 現在日本の人口減が加速的になったことにより色々な面において今までのあり方と様変わりするのではないだろうか。

 葬儀中心の寺院から、宗教本来の人間としての悩みを解決する糸口としての僧侶が求められるであろう。21世紀こそ、人々の心の中に仏の教えが染み込むように、僧侶自身が精進せねばならないと密かに思う。


2007年5月20日(日曜日)

仏像の教えるもの

カテゴリー: - admin-enjuji @ 13時18分13秒

釈尊は35歳で悟りを開き、80歳で亡くなるまでの45年間、苦悩を乗り越えてゆく道を大衆に説いた。この説法の内容を後に文章としてまとめたものが教典である。

けれども釈尊の容姿にについて触れる部分は全くない。

その釈尊が亡くなり、直接見ることのできなかった釈尊の容姿について、人々は、大きくは32、細かくは80の特徴を伝え聞いたという。これが如来の三十二相八十種好である。

それを像として表そうとしたが、尊い釈尊の姿はなかなか形として表現できない。見た目には「人類の王様のようだ」とか、「太陽のようにありがたい方だった」とか言われ、その太陽を図案化して輪宝というシンボルマークをつくり、それを釈尊として拝むようになった。

また釈尊が歩まれた道や説法をされた場所に「仏足石」を造ってそれを拝むようになった。さらに、釈尊が菩提樹の前で禅定したことから菩提樹を図案化したものさえも信仰の対象とした。

やがて釈尊を直接見た人がいなくなると、その象徴だけでは満足できなくなり、三十二相八十種好を参考に釈尊の像をつくろうと、およそ300年の時をかけて仏陀の像が形成されていった。

すると説法の中に出てくる仏や仏弟子たちの像も次第につくられて行く。当然誰もその姿を見てはいないのだが、人格化し表現していったのである。

それが今日我々が見ている仏像で、紀元1世紀ごろに形作られた。

このようにして「如来」(阿弥陀如来・大日如来など)や「菩薩」(観音菩薩・地蔵菩薩など)、「明王」(不動明王・愛染明王など)、「天部」(四天王・仁王など)が、釈尊の姿をモデルとしてつくられていくのである。

仏教の真髄は慈悲である。父親のような厳しさと母親のような優しさを仏像は併せ持つ。また服装や指先を動かすことによるいろいろの法力を示す印相があり、蓮座や岩座などの台座の形にもそれぞれの法力に相応しい形が決められている。

では三十二相八十種好の一部を記してみよう。

釈尊の肌は金色で身体からは光が出ている。その光の長さは各一丈(約3m)で四方に向かって放射している。

皮膚は細やかで滑らかであり、妙なる香りを醸している。頭頂は肉髻相であり髪は長く紺青色で光沢があり、右回りの螺髪になっている。

額は広く円満で平らであり、中心の眉間に白毫相があっていつも光を放っている。

このように頭の一部だけでも円満で安定感があり、光り輝き美しい。身体全体は仙人の王のようで、見ていても飽きることがないという。

仏の姿を刻む仏師はそれらを念頭におき、全身全霊を傾けたことであろう。仏像は単なる美術品ではなく、仏師自身の信仰の表現である。仏像を通して、仏の慈悲を感じとりたいものである。


2007年4月22日(日曜日)

桜の花の咲く頃

カテゴリー: - admin-enjuji @ 22時10分41秒

4月13日、薄紅色の桜が咲き始めた。我が家の庭にあるベニシダレザクラとソメイヨシノの開花である。昨年の日誌を見ると9日早い。

何本かの桜はほぼ同時に咲き、今年の暖冬であったことの認識を新たにした。その中で樹齢500年と140年の枝垂れ桜の2本をわざわざ遠方よりやってきて観ていく人がある。

1週間前、未明3時に起きて群馬県から福島県の桜を観て回ってるという青年がいた。福島県内のガイドブックを見ながら訪ねてきたという。来週また出直してきますと言って帰っていったが、その人は今日来てるかもしれない。

近年は行政も「桜」に関心を寄せている。市の職員が毎日開花の状況をカメラにおさめていくようだ。ホームページで開花状況を公開している。今年も市内の桜マップを作成したようである。

私は今まで桜の手入れなどしたことがほとんどなかったが、樹木医の助言を得て今年は肥料をやった。老木の一本は、大正時代か昭和の初め頃発行の地名大辞典に掲載され、樹齢500年と紹介された。発行年数から換算すると570年以上の樹齢となるが、確証がないので樹齢500年と私は言っている。

数百年、我が家を見てきた桜。長年の風雪で朽ち、3分の1ぐらいしか生きていない古木を粗末にしてきたことを反省し、いたわりの目で手入れせねばと、やっと思えてきた。

一昨日、千葉県に在住する妻の兄夫婦が、この2本の桜を見に来た。ちょうど三春町の桜が満開だということで案内した。岐阜県本巣市の「淡墨桜」・山梨県北杜市の「神代桜」とともに日本三大桜として数えられる、国の天然記念物の「滝桜」である。滝のように咲き乱れるからこの名前がついたともいうが、所在地の字名でもある。

過疎に悩むこの地も、この時期だけは人、人、人と車の山である。三春町は桜で町おこしをしようと必死で頑張っている。たくさんの桜の苗木をあちこちに植え、観光客の目を楽しませている。

我が家にも滝桜の子供だという2本の桜があるが、三春町に見習って桜の保存を心がけなければならないと思うこの頃である。


2007年3月31日(土曜日)

植木等さんの死を悼む

カテゴリー: - admin-enjuji @ 17時29分15秒

3月27日、俳優でコメディアンの植木等さんが80歳で亡くなった。

昭和32年にハナ肇さんが結成したクレージーキャッツに参加し、歌とギャグを担当し、特に昭和36年「スーダラ節」お大ヒットさせた。

高度成長期の昭和37年の夏、映画「ニッポン無責任時代」が東宝で作られ、その主人公にを演じ、それに合わせて「無責任一代男」「ハイそれまでヨ」の曲がテレビから流れ、映画も大ヒットした。同年末には「ニッポン無責任野郎」は封切られ、これまたヒットしたのである。

いい加減な上底抜けに明るく、要領の良さだけで出世するサラリーマンを演じ、彼自身が「無責任男」の代名詞となった。しかし実は、誠実で思慮深い人であったという。

彼は、三重県の浄土真宗寺院に生まれた。父である住職は部落解放運動に積極的に関わり、封建制から抜けきれない当時、治安維持法違反で入獄したり、各地の社会運動に参加するなど、信条を持った行動の人であった。

きまじめな植木さんは、青島幸夫氏の「スーダラ節」の歌詞「わかっちゃいるけどやめられない」について父に相談したところ、親鸞の生き様に通じるものがあると諭され、歌うことを決意したという。

彼が42年前京都にいたとき、京都親鸞会が講演を依頼した。多くの市民が仏教に関心を持ってもらうために、芸能人を講師に迎えることにしたのである。それには人気があるだけではなく、しっかりした考え方をもった人ということで、植木等さんに白羽の矢が立ったということだ。

それも歌ではなく講演会ということであったが彼は快諾をし、そのユーモアある話しぶりはとても印象に残っている。

当日同じく講演した映画監督の松林宗恵氏の話によると、植木さんはこの日のために何日もかけてテープに吹き込んで練習したという。それを聞いて、彼の努力する姿に胸を打たれたことであった。

10年前頃から肺気腫を患い、療養しながらの仕事だったようである。自分に何かあったら延命措置をせず、密葬にしてくれと周りの人に話しており、関係者もそれを遺言として受けとめていたというから、日頃の信頼関係がしっかりしていたのであろう。


2007年3月22日(木曜日)

暖冬に思う

カテゴリー: - admin-enjuji @ 16時47分24秒

昔から「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるが、今年もそのお彼岸を迎えた。

最近の地球環境は変わった。地球温暖化と言い始められて久しいが、今年ほど日本の誰もがそれを実感した年はなかったであろう。

ここ大越は、標高四百数十メートルの高冷地であるが、この冬の初雪は12月29日であった。その後やっと2月15日に積雪があったものの20センチにも満たなかった。

その間暖かい雨があったり、仙台に出張する車中からも、雪景色はどこにも見られなかった。本格的な冬が来ないうちに春が来たのかとさえ思えた。

2月のうちに庭先の福寿草の花が咲き、ふきのとうをを採って大阪の子供のところに二度、春の香りを送った。

3月になって、やっと冬がやってきたように寒くなってきた。2月末頃まではエルニーニョの影響で暖かかったが、その現象が消えて急に寒気が入りやすくなったためだという。

それにかかわらず、桜の開花予想が出た。3月13日に静岡、18日が東京だという。結局気象庁の電算機入力ミスとして訂正されたが、機械頼りのお粗末さが露呈した結果となった。

3月12日、しばらくぶりの降雪が北日本を中心に人々を驚かせた。暖冬のためスキー場を閉鎖したり、雪祭りを中止したり、弘前でも例年より一ヶ月早くゴルフ場をオープンさせた矢先、突然の来訪であった。

15日に仙台に行ったとき、車窓からみると一部に残雪が見られたがさほどの量ではない。冷たい風ではあったが殆ど雪のない仙台を見て、秋田や会津の人も驚いていた。

お彼岸に入っても、積もるほどではないが雪がちらつくこの頃である。冬に逆戻りとも思える数日であるが、年ごとに温暖化の波は感じられる。日本は6%のCO2の削減が必至であるという。しかし逆に8%増加しており、目標達成には大変な努力が必要である。

昨日、東京で6輪のソメイヨシノが咲き開花宣言された。これからは前線が南北に急ぐであろう。

いろんな花との出会いを楽しみに、春を満喫したい。


2007年3月6日(火曜日)

利休の心に学ぶ

カテゴリー: - admin-enjuji @ 18時14分02秒

千利休は幼少から茶を学んだ。17歳の時に北向道陳に学び、その後武野紹鴎に師事した。そして茶道だけでなく茶道具を開発工夫し、陶芸にも影響を与えた。

その茶道のもっとも大切なこころとして唱えているのは「和敬清寂」(四規)である。すなわち「和」…お互い同士が仲良くし、「敬」…敬い合って自らを慎み、「清」…見た目だけではなく清らかな心となるよう努力し」、「寂」…どんな時にも動じない心、が大切である。

このこころは、茶道だけではなく私たちが生きていく上で日常から心得ておきたいことである。

また利休が弟子の一人に「茶の湯で心得ておくべき最も大切なことは何か」と問われたとき、「茶は服のよきように、炭は湯の沸くように、夏は涼しく冬は暖かに、花は野にあるように、刻限は早めに、降らずとも雨の用意、相客に心せよ」と答えたという。

それを利休七則といい、もてなしの理想でありながらなかなか至難の業である。

具体的には、

茶は服(ふく)のよきように 〜心をこめる〜
「お茶は心をこめて、おいしく点てましょう」という意味です。「服のよきように」というのは、舌の先でおいしいと感じることだけでなく、一生懸命に点てたお茶を客がその気持ちも味わっていただくという、主と客との心の一体感を意味しています。

炭は湯の沸くように 〜本質を見極める〜
炭に火をつけさえすれば必ずお湯がわくとは限りません。湯がよくわくように火をおこすには、上手な炭のつぎ方があります。しかし、そのつぎ方を形式だけでのみこんだのでは火はつきません。本質をよく見極めることが大切です。

夏は涼しく、冬は暖かに 〜季節感をもつ〜
茶道では夏の涼しさを「茶室」「露地(ろじ)」「道具の取りあわせ」に表現します。「打ち水」をしたり、床に「涼一味(りょういちみ)」などのことばをかけたり、冷たいお菓子をだすなど、自然の中に自分をとけこませるような工夫をします。

花は野にあるように 〜いのちを尊ぶ〜
「花は自然に入れなさい」ということですが、「自然そのままに」再現するというのではなく、一輪の花に、野に咲く花の美しさと自然から与えられたいのちの尊さを盛りこもうとすることに真の意味があります。

刻限は早めに 〜心にゆとりを持つ〜
「時間はゆとりを持って早めに」ということですが、ゆとりとは時間を尊重することです。自分がゆったりした気持ちになるだけでなく、相手の時間を大切にすることにもなります。そのときはじめて、主と客が心を開いて向かいあうことができます。

降らずとも雨の用意 〜やわらかい心を持つ〜
「どんなときにも落ちついて行動できる心の準備と実際の用意をいつもすること」が茶道をする人の心がけであることをいおうとしています。どんなときにも「適切に場に応じられる」自由で素直な心を持つことが大切です。

相客(あいきゃく)に心せよ 〜たがいに尊重しあう〜
「相客」というのは、いっしょに客になった人たちのことです。正客の座にすわっている人も末客の席にいる人も、おたがいを尊重しあい、楽しいひとときを過ごすようにしなさいと利休は説いています。
:arrow:(裏千家ホームページ〜お茶の心ってなんだろう〜より)

このように利休は、茶室ではすべての人が平等であり、客同士が尊重し合う楽しいひとときを過ごすことを実践した人であった。

彼は茶聖といわれ、今日の茶道の基礎を築いたのである。


2007年2月27日(火曜日)

千の風

カテゴリー: - admin-enjuji @ 19時54分00秒

昨年のNHK紅白歌合戦で話題になった、秋川雅史が歌う『千の風になって』が、その後かけがえのない人を失って絶望の縁にいる人を救ったとか、人生の応援歌になったとか、聴く人の心にますます感動を与えている。

この詩の原文は英語で、作者は不明である。19世紀にアメリカで生まれ、日本へは12年前に紹介されたという。

この歌ができた経緯は次の通りである。

作家である新井満さんの友人が48歳で奥さんを病気で亡くし、その友人の深い悲しみに新井さんは慰める言葉もなかった。1年ほど過ぎたある日、新井さんはこの英語の詩に出会い、この詩なら友人の心の励みになるかもしれないと感じ、日本語に訳し自ら曲をつけて歌い、CDにして送ったという。

そのCDが届いた翌日が友人の娘さんの結婚式であったこともあり、その歌を聴いた父娘は、人は死んで終わりではないんだ、いつも見守っていてくれるんだと、励ましのメッセージとして受けとめたということである。

新井さん自身もこの詩によって、死とは遠くに行くのではなく千の風となって身近にいるのだと考えると気持ちが楽になったという。死は、いかに生きるべきかを考えさせ、生きる勇気といのちへの感謝をあたえてくれた。亡くなった人の分まで生きようという気持ちになったことに驚いたという。

世界に広まったこの詩は、仏教にも共通することは興味深く、大切な人を失ったひとへ贈る歌として仏教的フレーズで補作された。

それは「千の風〜限りないいのちに包まれて〜」として、愛知県普元寺副住職西脇顕真さん作詞と作曲家清澤久恵さんの曲によるものである。

この詞の内容は原文を積極的に具体化されたものであり、その全文を記し、近くCD化されることを期待したい。

わたしのお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません
永遠の眠りになんて ついてはいません
ほらもう千の風になって
世界をかけめぐっています

雪にきらめくダイヤモンド
穀物に降りそそぐ陽の光
優しい秋の雨の中にいます

毎朝起きて窓を開ければ
そよ風がふわっと入ってきて
あなたの周りをくるくるまわる
夜には星がそっと光っています
あなたは大きないのちに
つつまれています

わたしに会いたくなったとき
ナモアミダブツと呼んでください
わたしはあなたのそばにいます

だからもうお墓の前で泣かないでください
わたしは死んではいません
永遠の眠りになんて ついてはいません
いつでもあなたのそばにいます


2007年2月22日(木曜日)

なくそう 差別の心を

カテゴリー: - admin-enjuji @ 15時39分19秒

何気なく使う言葉が、人の心を傷つけることがある。

少子化対策大臣でもある柳沢厚生労働大臣の発言は国会を空転させ、愛知県知事選や北九州市長選に多大な影響を及ぼした。

1月27日の松江市での講演で、「15歳から50歳までの女性の数は決まっている。産む機械、装置の数は決まっているから、産む役目の人が一人頭で頑張ってもらうしかない」と言ったことが大きく報道されると、「わかりやすく説明しようとして発言してしまった」と釈明した。

この発言は大臣の失言という人もいるが、女性を「産む機械」に喩える発想に猛反発をうけた。結婚や出産は個人の決定に基づくものではあるが、子供を安心して産み育てることができる環境の整備こそが大切であろう。

私が、幼稚園や保育所に勤めていたころ、政治家の児童福祉への関心が少なく将来を危惧していたが、日本の人口が減り始めた現在になってやっと深刻な問題と気づきだした時期だけに波紋が大きく拡がった。

この問題発言に何度も陳謝した大臣は、2月6日の記者会見で「若い人達は結婚をしたい、子供を二人以上持ちたいという健全な状況にいる」という発言をした。本人としては女性を傷つけようと意思は毛頭なかったであろう。しかし心の中では男尊女卑の心、差別の心があったのではないか。女性なら誰でも機械のように簡単に産めるという考えがあったのでなないか、という疑問を持たざるを得ない。

政府は合計特殊出生率1.26人を上げることにやっと本気になってきた。昭和35年(1960)には851分娩に一人の割合で妊婦が死亡したが、平成16年(2004)には23,369分娩に一人までに減少したという。しかし最近は労働条件の悪化による産婦人科医不足が深刻化している。

昔は今のように子を産むという意識より、子を授かった、子に恵まれたという感謝の気持ちが中心であった。行政は、子育てすることが楽しみな環境作りが大切であろう。

私はご門徒より過去帳作成の依頼を受け、戸籍を見せていただくと、7〜8人のお子さんを産んでいる女性は少なくない。でもその中にはその子供さんを幼くして失っている方も珍しくはなく、出産、子育ては命がけの大事業でもあったことが見てとれる。

子供が欲しくても授からない女性も沢山おり、みな一様ではない。昔も今もひとりの子供を産み育てることは決して容易ではない。厚生労働大臣は本音を言ったのではなく失言であって欲しい。そうでなければ女性蔑視の考えになってしまう。

では私の心はどうであろうか。

自分としては偏見や差別の心を持たないように努めているが、ある人から学校などで「元気でたくましい明るい子」を目標とするという言葉は嫌いだと言われた。この言葉は何気なく理想像と思われてきたが、病気で健康でなかったら、たくましくなかったら、明るくない子であったらだめなのか、というものであった。明るく振る舞おうとしてもそれができない子はだめだと無自覚のうちに思ってはいないだろうか。平等心は大切だと思いながら他と比較して、差別の心があちこちに芽を出し、人を傷つけてはいないだろうか。人の気持ちを分かろうとする気持ちを忘れないことが、私の永遠の課題である。


2007年2月11日(日曜日)

いろは歌の意味するもの

カテゴリー: - admin-enjuji @ 10時27分37秒

「いろは」の順序ではじまる記号は、建築現場での木材の墨つけの順番などに使われるなどのほか、今では殆ど見られなくなった。

その順序を覚える手習いとして、47文字からなる「いろは歌」がある。

これは弘法大師作といわれていたが、亡くなった後の平安中期、作者不詳であるという。

私は中学時代この歌の意味に興味を持ったこともあったが、あまり歌われる歌でもなかったので深く考えることもなく過ぎてしまった。

 色は匂えど散りぬるを
 我が世誰ぞ常ならむ
 有為の奥山今日越えて
 浅き夢みし酔ひもせず

「一切衆生悉有仏性」(一切の衆生は悉く仏性を有す)ということが書いてある有名な『大般涅槃経』に「施身聞偈」とか「雪山偈」「諸行無常偈」といわれる言葉、「諸行無常・是生滅法・生滅滅已・寂滅爲樂」がある。

これを翻訳したのがこの「いろは歌」であると言われる。

「諸行無常」…一切の因縁によって起こる現象は常に生滅変化して常住のものではない。
「是生滅法」…諸行無常は、生まれて滅ぶという真理である。
「生滅滅已」…生まれたり滅したりすることに煩わされることが滅し止むことである。
「寂滅爲樂」…煩悩がなくなって痛くも痒くもなくお腹が減ることもないというわけではなく、三毒の煩悩に煩わされることがないということである。

お経の話は次の通りである。

バラモンの雪山童子(前世の釈尊)が雪山(ヒマラヤ)で衆生利益のために苦行をしていた。帝釈天はそれが本気か疑念に想い羅刹に身を変えて「諸行無常 是生滅法」の前半の偈を高らかに唱えた。

これを聞いた童子は、後の半偈を是非聞きたいと懇願した。そうすると羅刹は「私は腹が減っているが、私の食べ物は人肉で、飲み物は血である。あなたを食べさせてくれるのなら、後の半偈を聞かせてやろう」と言う。

これを聞き終わった童子は、この偈を辺りの岩や壁や木に書きつけて、約束通り身体をあげるために高い木に登り身を投げた。

これを見た羅刹は帝釈天に戻って、空を飛び童子が落ちる寸前に受け止めて、地上に置き「あなたは真の菩薩です。将来あなたが悟られた時は、ぜひ私をお救いください。」とひれ伏したということである。

真実に目覚めると、苦悩の根源は三毒の煩悩であることがわかる。つまり貪欲(むさぼり)、瞋恚(いかり)。愚痴(おろか)であった。これらの煩悩に煩わされることがなくなる道が仏道であることを教えている。


2007年2月5日(月曜日)

茶の伝来と普及

カテゴリー: - admin-enjuji @ 10時24分27秒

茶道裏千家の15代家元、千玄室氏は言う。

「鄧小平副首相から、中国に起源のある茶の株があれば両国を一体にできる。頑張って欲しい、と頼まれてからだ。」と。

氏は中国に百回以上訪問し、「一碗から平和を」を訴えて茶道を弘め、97年文化勲章を受章し、5年前に家元を長男に譲った。しかしながら83歳の今も精力的に茶道の普及に努められている。

ここで茶道の伝来と普及について考えてみよう。

茶の木の原産地は中国の西南部と考えられている。茶を飲む風習がこの地から広がり、紀元前には商品として流通していた。

日本へは、奈良時代の遣唐使や中国に渡った留学僧達によって伝来したと伝えられる。

当時は茶の葉をつき固めて団子のようにした茶団であった。聖武天皇の時代、行茶の儀が行われていた記録がある。

平安時代になって、最澄が茶の種を持ち帰り滋賀県坂本に植え、茶は貴族や僧の間で飲まれていたが894年遣唐使が廃止され茶の輸入もなくなると、十分な生産ができず茶を飲む風習も一時途絶えた。

しかし平安末期、中国の宋と国交が再開されると、臨済禅を学んだ栄西らによって再び伝えられることになった。
この時代の茶は現在の抹茶とほぼ同じもので、精巧な道具を使用して茶を点てる作法も普及した。栄西は京都栂尾高山寺の明恵上人に茶の実を贈り、その地が茶の生育に適していたため上質な茶が採れるようになった。その後宇治や静岡など全国へと広がったのである。

栄西は、茶は万病に効くものであると「喫茶養生記」を著し、当時の将軍実朝も健康回復の葉として常用する。

室町時代になると茶は商人層にも広まっていくが、一方でその作法は豪奢となっていく。一部の上流階層の間では、皮肉にも現在の茶会と似た形式をもつ茶会風景が見られたようである。

しかし幕府の経済状態の悪化とともに、武家や貴族の生活も困窮に向かうと、絢爛たる茶会も影をひそめていく。

政治より風流を好んだ8代将軍足利義政は、身の回りの相談役の能阿弥の紹介で茶の湯を嗜む村田珠光を招いた。

珠光は奈良称名寺の禅僧であり、大徳寺の一休宗純に禅を学ぶ一方将軍に茶を教えた。

彼は義政に「茶の作法は簡素なもので、禅の精神に沿ったものである」と答えたことから、広い部屋での華やかな茶会ではなく、慈照寺銀閣や東求堂に四畳半の部屋を改め、簡素で落ち着いた草庵の茶を始めた。象牙や唐銅で作られていた茶杓、花入も竹や木に改めた。

義政が愛好すると一般にも流行し、寺社など人の集まる場所で飲ませる一服一銭の茶売りが現れるようになる。やがて義政の死や相次ぐ戦乱で、平和を愛し風流を楽しむ人たちは京都を離れ自治都市の安住の地堺へと移り住む。

この後武野紹鴎、千利休と伝えられ、茶道が確立していくのである。


2007年1月28日(日曜日)

夕張を教訓とせよ

カテゴリー: - admin-enjuji @ 15時22分11秒

4月から財政再建団体になることを決めた夕張市は、26日財政再建計画の素案を発表した。

それによると、累積赤字約353億円を18年間で返済する。2月に総務大臣に指定申請し、国の支援策を調整の上正式決定した後3月に指定を受けて国の管理下に入るという。

昨年だけでも400人以上の人口が減少、今後も大量の市職員退職にともなっての流出が加速されるとみられる。

昔の繁華街はシャッター通りになり、市営住宅も1/4しか住んでいない。市民の40%が老人だという。

これから市民税の個人均等割を500円、固定資産税を値上げ、ごみ処理の有料化、施設や下水道使用量の値上げなどで歳入増をはかる一方、職員数309人を3年間で152人にし、さらに給与を3割カットして全国最低水準とし、市長の給与を7割カットの26万円にするなど人件費を削減。公共施設の廃止や統合、各種団体への補助金廃止や縮小、そして事務事業見直しによる経費を節減して歳出を減らすという。

マスコミでも大きく取り上げ、みのもんたや松山千春などが夕張に行って市民を励ました。

相撲協会でも入場無料の巡業を行うという。


2007年1月26日(金曜日)

私の食育

カテゴリー: - admin-enjuji @ 18時55分06秒

栄養の偏りや食習慣の乱れから、一昨年6月に「食育基本法」が制定された。食育とは、さまざまな経験を通じて「食に関する知識」と「食を選択する力」を習得し、健全な食生活を実践する人を育てることである。

その食育の推進に取り組むには、
?食事習慣と健康
?食の由来・文化
?生産・流通・消費
?食の安全・安心
の4つのテーマの理解と実践である。

?について、規則正しい食事や栄養のバランス、食事量への配慮など、健康的な食習慣を実践する。
?について、感謝の心、食事マナー、行事食や郷土料理の体験など食文化を理解し伝承する。
?について、地場産物の活用、農業体験、生産者と消費者が交流し相互理解する。
?について、食品の表示、衛生的な取り扱い、農業や食品添加物について情報提供し、食の安全性を確保する。

これらを実践することはすばらしいことだが、最近の「不二家事件」にみられるように、生産者が消費者を裏切る結果になればその信頼関係はいとも簡単に崩れてしまう。

農林地帯のこの地、農地に農薬を使わず、自給自足を目指して、有機肥料で食の安全を確保するため汗を流して少しでも生産の喜びを味わいたいと思う。


2007年1月25日(木曜日)

湯川博士を偲ぶ

カテゴリー: - admin-enjuji @ 18時48分40秒

昭和24年、42歳で日本初のノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士(1907〜1981)は、今年1月25日で生誕百年を迎える。

当時の新聞には、博士の昭和9年(1934)10月9〜12日の日記に、中間子論の着想を示す記述、γ-ray(ガンマ線)の言葉があり、思案や議論をした様子が書かれていることを報じている。

当時は、原子核が陽子と中性子でできていることが判ったばかりで、それらがなぜバラバラにならないのかが謎だったが、新粒子の理論を導入するとうまく説明できると発表した。それが同年11月であり、27歳の若さで中間子という考え方の芽が出ていたことになる。

私が博士の講演会で聴講した40年前、ラッセル・アインシュタイン提唱による核兵器のない世界の実現に署名して、平和運動をされていたことを懐かしく思う。


2007年1月21日(日曜日)

今日何がおこるかわからない

カテゴリー: - admin-enjuji @ 16時35分26秒

本堂に掲示している一枚の紙に書いたこの言葉は、現実に私の身に起こった。この原稿をワープロでたたいていたところ、急に動かなくなった。漢字への変換ができなくなったのである。

ワープロは、パソコンの普及で現在生産もされておらずすでに故障の修理も不可能である。

長年使用してきたので、不具合の時も多かったためいつか使用できなくなるとは考えていたが、まさかこんなに早くその時が来るとは意外であった。いろいろな文章を書かなければならないのに、と愚痴が出る。

今までは、パソコンの字は小さくて見えないし、操作も面倒なのでワープロを使い続けていたが、それも許されなくなった。

手足が自由に動くときは何とも思わない。五体満足なときはそれが当たり前と思っていたのに、ごこか故障が見つかると心配が絶えない。

心配があっても自分自身の身体を気遣う心が生まれたことに感謝したいものである。

いつ何が起こるか分からないのだから、現実逃避することなくパソコンをゆっくり覚えよう。


2007年1月20日(土曜日)

食育のすすめ

カテゴリー: - admin-enjuji @ 15時44分12秒

今、日本の食料の自給率は40%である。でも食べたいと思えば少々季節はずれでも大概のものは口にすることができる。

現在世界には約62億人いるが、そのうち食糧不足していないのはわずか8%であり、世界の殆どが食糧不足で一日に25,000人が餓死しているという。

恵まれた日本ではカロリー摂取量の過多による肥満が多い反面、朝食抜きという問題もある。

今子供たちに四つの「コショク」が問題となっているという。

孤食 − 一人だけで食べる
個食 − 親子が同一のものを食べない
固食 − 同じものばかり食べる
小食 − 少量しか食べない

安全な食料を確保するためには、農薬をできるだけ使用せず現地の作物を食べ、また農事に少しでも参加すれば食べ物を残さなくなるであろう。


2007年1月19日(金曜日)

頑張っている矢祭町に学ぼう

カテゴリー: - admin-enjuji @ 15時43分26秒

平成の大合併で、全国の市町村は平成11年度末の3,232から本年3月12日には1,807になる予定である。福島県内では90から60に減る見込みであり、今後も続きそうである。

これは国会で地方分権が決まり、人口の減少や財政が逼迫し、地方交付税の削減が拍車をかけたものであろう。

その中で、現状では合併しないと真っ先に自立への道を選んだ矢祭町が、一躍全国からの注目を浴びた。

同町は、個人情報保護のため住基ネットを断固接続を拒否し、国からの圧力をはねのけた。

役場庁舎は築45年と古いが、根本良一現町長は助役以下全職員が掃除を当番制で行い、徹底した人件費削減に努めている。

行政が大きくなると、町民にきめ細かにサービスができないと窓口を年中開くなど、町長の指導力と職員の公僕精神には頭が下がる。

その姿に共鳴して、住民の行政への関心が深まり、ボランティア活動が盛んになってきたという。
図書館の必要性から全国に本の寄贈を呼びかけ30万冊という善意が全国から寄せられた。その中には高価な書籍や新本も少なくなかったという。

今までの柔剣道場を改修し、「もったいない図書館」が誕生した。このことは、発想の転換によってはお金を遣わずにすばらしいものを作ることを教えている。


2007年1月17日(水曜日)

震災が教えたもの

カテゴリー: - admin-enjuji @ 16時54分49秒

阪神大震災で、6,434人の尊い命を落として12年。今年は13回忌に当たる。

被災地の各地で追悼行事が行われている。発声した地震は平成7年1月17日午前5時46分であった。

最も被害の大きかった兵庫県内では、当時を思い出し、未経験の人にも語り継がれている。

しかし現在、神戸に行ってみると市街地は整然として高層ビルが建ち並んでおり、その面影はあまり感じられない。

被災者は生涯忘れることのできない出来事であろうが、全体的に意識は希薄化しているという。

震災を機会にボランティア活動が盛んになった。

当時多くの人はこんなに発達した科学技術が一瞬にして破壊されるとは信じられない気持ちであったろうと思う。

こんな悲惨な状況をテレビで観た私も、躊躇することなく長年たまっていた約600本のタオル、毛布・シーツなどを郵便局より送った記憶がある。

ボランティアとは、世の中に役立ち、自分も生きがいを感じられることである。この時を機に日本中の人の意識が変わったと思う。

この時の被災者が、その後の中越地震や他の災害でもいち早くボランティアとして参加している。


2007年1月15日(月曜日)

迷信に惑わされない人生を

カテゴリー: - admin-enjuji @ 14時40分31秒

迷信はあてにならない、と頭の中では思っていても雑誌などの占いに目が行くつい気になってしまう。特にテレビで占い師が言葉巧みに言っているとなおのことである。

迷って途方に暮れているとき、恐れを感じているとき、迷信に惑わされ深みに入りやすい。普段は気にもしていないのに、いざ結婚となったとき、身内が亡くなったとき、不安になったとき、自分の知識では解決できなくなったとき、人間の弱さが表れ迷信に囚われがちなのである。

だからこそ、常日頃正しい考え方、確かな拠り所を持たなければならない。

迷信には様々なものがあるが、そのうち最も気にしているもののひとつが六曜であろう。六曜とは先勝・友引・先負・仏滅・大安。赤口である。

これは中国で作られた時刻占いであるが、日本へは鎌倉時代末から室町時代に伝わり、やがて名称や順序、解釈も日本式になり、日の占いへと変化していった。

この六曜の日取りは、旧暦(太陰暦)の月日に機械的に並べるだけの単純なものである。先勝・友引・先負・仏滅・大安。赤口の順である。

旧暦1月と7月の1日は先勝から始まり、2月と8月は友引から。3月と9月は先負、4月と10月は仏滅、5月11月は大安、そして6月と12月が赤口から数えるといった単純なものである。

太陰暦から太陽暦へと改めた明治5年の改暦の詔書では、「歴注にある日や方角の善悪などは根拠のない全くの迷信で、正しい知識の開発を妨げるもので、暦を発行するときは、歳徳や金神(陰陽道で祭る方位の神)、日の善悪などを掲載してはならない」(太政官布告361号)と禁止している。

長い年月の間に、暦の知識も全くなく鵜呑みにしてきた一般の人々が、今悩んでいる。これを見ても分かるように、今では使われていない暦に、何の根拠もない日の善し悪しを勝手に作り上げ、それに振り回されて日常生活を不便にしているのが実態である。本来、六曜は暦に用いるべきでないのにも拘わらず今なお多くの暦に記述されていることは残念である。

深く因果の道理をわきまえ、現世祈祷やまじないを行わない仏教徒は、このことをよくよく心得るべきである。


2007年1月12日(金曜日)

どうなるか夕張市の行方

カテゴリー: - admin-enjuji @ 14時27分55秒

夕張市は炭鉱の町として栄え、閉山後も観光の町として知られていたが、観光施設などへの過大な投資などで360億円を超える借金を市が抱え、このままでは返済が不可能という状況まで深刻化してしまった。

それで今年4月から「財政再建団体」になり、今後20年間、国の管理下にあり、支出を切りつめ借金返済に充てることになる。

図書館や美術館、市民会館、プールなども廃止される一方、市民税も大幅に増税、下水道料金や保育料も値上げするという。また七つの小学校と四つの中学校も各一校に統合するという。

300人の職員も127人以下にするという。

市長の給与も7割、一般職の給料を平均3割削減。18人の市議会議員を4月の選挙で9人に減らす上にその報酬を24万から18万に減らすなど、最低の水準にもっていくそうだ。

市の職員を退職しても仕事がないことから、今後流出する人口の激増は必至であろう。それにしてもこんなになるまで市当局がどうして対策を講じていなかったのか不可解である。

財政上貧しく厳しい町村が合併して誕生した田村市も、このことを他山の石としないで市債の現状分析と節約を念頭において将来のビジョンを掲げながら前進しなければならない。

12万人あった夕張市でもこうなったのであり、平成17年3月1日に田村市として合併した時点での人口43,804人が今なお減り続けている現状の中で、いっそうの魅力ある施策を望みたい。


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